ちせ本の記録
私の好きな本を集め感想を書いていきます。純文学を中心にしますので、宿題やレポートの参考にもどうぞ。
「塩の街」 有川浩
著者 : 有川浩
角川書店(角川グループパブリッシング)
発売日 : 2010-01-23
塩害により滅びゆく世界。命を賭けて世界を救おうとするのは、生き残った自衛官たち。なんていうよりも、滅びるかもしれない世界の中で育まれる、愛のエピソードをちりばめたお話です。


 要するに、愛。

 「Scene-1」を読み終えて、思わずもれた言葉は「美しい」でした。「悲しい」ではなく。
 塩害によりもはや国としての機能さえ失いかけている日本。塩化した恋人の遺体をリュックにつめて、ひたすら歩く1人の男。彼女を埋葬し、自らも共に死ぬのにふさわしい、きれいな海を求めて。彼女と2人、海でひとつに溶け合うために。
 塩害により滅びゆく日本で、こんな美しいエピソードばかりを集めた短編集なのかと思いました。塩害が何かなんてどうでもいい、と。残念ながらそんな作品ではありませんでした。読者はやはり知らなければならなかったのです。なぜこんなことになってしまったのかを。そしてやはり、世界は救われなければなりませんでした。
 ある日突然、巨大な塩の結晶が東京湾に落下。以来、人が次々と、塩になって死んでいくという現象が起きる。政府は壊滅状態。交通機関も止まり、食物は配給制に。そんな日本を、生き残った自衛官たちが救う。時に残酷で汚い手を使ってでも、生命を賭して…。
 といったところで、そんなハードボイルドな作品でもないのです。結局は「Scene-1」を彷彿とさせるような、美しくて心温まる、愛にあふれた作品です。
 世界を救ったのは自衛官の秋庭。ひょんなことから助けるはめになった高校生の真奈がそばにいて。いつ誰が、突然に塩化して死に至るかもわからない世界の中で育まれる愛情。男が命をかけたのは世界を救うためではなく、ただ彼女1人を救うため。彼女を失うのが怖かったから。
 甘っちょろすぎて恥ずかしいくらいですが、そういうものかもしれません。人が本当に滅びる瞬間、人は結局自分のことしか考えないのかもしれません。世界のためとか人類のためとかいうのは、理想というよりはむしろ妄想。最期と思ったその瞬間に頭に浮かんだ人こそが、本当に愛する人。自分の命とも言える人。そう考えさせられるエピソードが、秋庭と真奈を中心に、他にもいろいろとちりばめられています。
 でもそれは決して大げさなものではなくて、こんな極限の状況にあってもいたってシンプルに、甘く、そして温かく。夫婦の愛、親子の愛、恋愛、友情。世界が滅びるかもしれないときにも、日常的にそんなものは育まれているものなのです。
 要するに、「愛」ってことですよねっ、と。
 さて私の夫は、その最期のときに、誰よりも先に私のことを考えてくれるでしょうか。

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「怪物はささやく」 パトリック・ネス
母の死を悟るほどには大人で、それを受け入れるまでには成熟していない13歳の少年。つきつけられる現実は残酷で、そこから彼を救うために怪物は現れました。とても哀しく残酷で、でも心温まる物語です。


 怪物はここにも。

 13歳。難しい年頃です。
 闘病する母の姿を見て、その死を悟ってしまうほどには大人。でも、それを受け入れることができるほどには成熟できていません。
 両親が離婚して母1人子1人の生活。外国で新しい家族と暮らす父さんは、コナーを連れて行ってはくれません。母さんがいなくなれば、彼のそばにいるのは相性の良くないおばあちゃんだけ。どんなに困難でも、その事実を受け入れるより他彼が生きる道はないのです。
 そんな彼を救うため、怪物は現れました。
 コナーが苦しいとき怪物は、コナーの家から見えるイチイの木の姿を借りて現れます。そして怪物はコナーに物語を話して聞かせます。しかしそれは、コナーをより苦しませる残酷な現実でした。
 この世の中の全てが、善と悪に分かれていて、善なるものが救われる勧善懲悪の物語でできているのなら、物事は単純です。正しいことをしていれば、必ず幸せになれるというのなら。そんな世界であれば怪物は母さんを助けてくれるだろうし、そもそも母さんは病気にさえならないかもしれません。しかし怪物が聞かせる物語はそうではありません。見方を変えれば善とも悪ともなる人たち。裏と表の心を持つ人間の現実。
 コナーにとって納得のいかないその物語は、やがては彼に彼の本当の心を見せることになります。彼の心の中にあって、彼自身潜在的に自覚し、悪だと思っている彼の心。物語はその心を認めて許し、彼を救うために語られました。だから最後の物語は、コナー自身が語らなければならないのです。自分が見出した自分の本当の気持ちを。そうすることによって見出す現実。それはすなわち「母さんの死」。
 コナーを気の毒に思いつつも、その本心を理解することはできず、何もできない学校の先生と生徒。唯一いじめっこのハリーと幼馴染のリリーだけが彼に近づきますが、心を通い合わすことはできません。現実から目を背けることしかできないコナーは、周囲の同情から孤立していきます。爆発する思いは、破壊的な行動に出ることでしか表現できなくなります。そんな彼を救える大人はどこにもいません。残酷すぎる現実を前に、誰も何も手出しができないのです。私自身が彼の近くにいたとしても、きっとそうだったでしょう。だから怪物が現れました。
 自分にとってたった1人の、誰よりも愛する人がまもなく病気で死ぬとわかったら、受け入れることができないのは大人も同じ。おそらくは私自身もそうでしょう。そのときは、怪物の力が必要です。
 コナーのおばあちゃんのところにも、怪物は現れていたかもしれませんね。
 とても哀しくて残酷で、でも心温まる、そんな物語でした。

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テーマ:読書感想 - ジャンル:本・雑誌

「破獄」 吉村昭
戦時中から戦後にかけて、4度の脱獄を成し遂げた無期懲役囚。彼はなぜ脱獄を繰り返し、そしてやめたのか。当時の日本の刑務所の実態が描かれます。


 脱獄の理由

 これは実際にあった話だと言います。
 強盗致死罪により無期懲役の判決を受けた佐久間清太郎は、青森、秋田、網走、札幌の刑務所から四度の脱獄を果たします。戦中から戦後にかけて、日本が貧しく、苦しかった時代でした。
 刑務所から逃げたところで、自由で豊かな生活が待っているわけではありません。彼をかくまう家族や仲間のいるはずもなく、寒い山野をさまよい、着る物や食べ物を盗みながら逃げ続ける生活です。
 日本の戦局と合わせて、それに伴う刑務所の被害、囚人や看守たちの様子を、佐久間の脱獄とそれに関わる人々と共に、作者は淡々と描きます。作者の感情が極端に抑制されているために、読者は事実から佐久間の本心を、なぜ彼が脱獄を繰り返すのかを、想像していくことになります。本当の理由など佐久間自身にも理解できていなかったかもしれず、冷静な作者の表現に非常に好感が持てます。
 秋田刑務所での脱獄の後、出頭した佐久間はその理由について「秋田刑務所での自分に対するあつかいがきわめて過酷であったから」と述べています。しかし、囚人としての規則を守らず、独居房から鎮静房に移されるような事態を招いたのは彼自身です。 私には、その絶対に脱獄は不可能と思われる鎮静房こそが、彼の脱獄への引き金を引いてしまったように思えます。
 小さな金属片がひとつあれば、手錠など簡単に外せてしまう器用さ。逃走経路を一瞬にして見いだせる頭の良さ、看守たちの心につけいり、恐れさせるだけの話術。そして、おそるべき身体能力。それらを存分に発揮するには、脱獄が困難であればあるほど良いのです。網走刑務所で、外した手錠をあえて見せる行動は、もっと困難な状況を作って見せろと挑発しているとしか思えません。
 網走刑務所で、後手錠にさせるなどの佐久間への扱いは、囚人に対してとはいえ非常に非人道的です。しかし、日本全体が苦しい時代です。食物の配給は少なく、その暴動を恐れるあまり、囚人は一般人よりも多くの配給を受けていました。自らが食べられる量より多くの物を囚人に与えねばならない看守。安い賃金で休日はほとんどありません。寒い冬に外で作業をする囚人はつらいかもしれませんが、それを監視する看守たちにもみじめな着る物しかないのです。そこで脱獄をされたら、当番の看守はさらなる罰則を受けることになります。囚人たちは罪人です。佐久間がいかに刑務所の非道な扱いを訴えたところで、彼が人を殺した事実は消えません。気の毒なのはやはり看守です。
 最後は府中刑務所で、特製の手錠と足錠を外された佐久間は、ついに脱獄をあきらめます。他の囚人同様作業にも従事させ、あえて特別な監視をしなかったのは当時の刑務所長の作戦でもありましたが、佐久間は脱獄をしない理由を「疲れた」からだと言っています。人を殺し、看守をあざむき、脱獄を繰り返した彼に、本当の贖罪の心が、ようやく芽生え始めたのかもしれません。

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「人間ぎらい」 モリエール

ルイ14世時代の戯曲。そのエスプリのきいた喜劇は当時の観客にはあまり受けなかったようですが…。脚本を読んで味わえるおかしさです。


 空気を読もう。

 ルイ14世時代のフランスの劇作家モリエール作の戯曲です。
 かなりエスプリのきいた喜劇で、当時の観客はこんな文学的な喜劇をたしなんでいたのか、と思ったところ、「解説」によれば当時の観客動員数はいまいちだったようです。
 確かに、動きはないのに小難しい長台詞が続くこの作品は、お芝居で観るとなかなか理解するのは難しいかもしれません。むしろこうしてじっくりと脚本を読むことで、その皮肉や膨大な台詞の醍醐味が味わえるのではないでしょうか。
 主人公のアルセストは、社交界に出入りする貴族のたしなみともいえるおべんちゃらを極端に嫌い、ことごとく他人を否定するため、話を始めれば人の悪口しか言わない嫌なやつです。そのため友人と話すときも、恋した女性にからむときも常に怒り心頭。その怒った様子があまりに極端で、読む方としてはちゃんちゃらおかしいのです。そんな彼を冷静にたしなめ、おべっかを振りまく友人のフィラントもまたおかしい。
 そんなアルセストが恋をしたのがまた、どんな男にも愛嬌をふりまく、浮気な未亡人セリメーヌ。いやあなた、こういうタイプの人間が嫌いなはずでしょう、と突っ込みたくなるような女性です。
 当然、アルセストはセリメーヌに裏切られます。というより、浮気な未亡人はすべての男を裏切ります。彼女に裏切られた男たちが、みんな彼女に愛想をつかす中、とことん人間を嫌ったアルセストだけが「人っ子ひとりいない砂漠で一緒に住もう、そうしたらあなたを許してあげよう」みたいなバカな台詞を吐くものですから、ますますおかしくなって、彼をちょっといいと思っていた他の女性まで興味を彼に失ってしまうという後始末。
 結果彼はひとりぼっち。そして誰もいなくなった。社交界が嫌いでも、おべんちゃらを言いたくなくても、多少は空気を読みましょうね。あなたも人間だから。

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「禁色」 三島由紀夫
女性への復讐を遂げ、究極の美青年を描くために生まれたとも思われる小説は一幅の絵。しかし主人公はやがて絵を抜け出し、妻との間に子を生します。ナルシストとしての勝利と生へのあこがれ。作者が本当に望んでいたのはどちらだったのでしょうか。


 「美」という名の絵画

 「美」を追求し続けた三島由紀夫が、その人物を描くにあたっては、女性よりも男性の描写に優れていると私は常々思っています。その中でも、この作品に映し出された「南悠一」は、三島が描いた数々の美しい男性の中でも、最も美しい青年ではないでしょうか。美しさを表現するために尽くされた装飾的な言葉の数々や、女であれ男であれ、自分を愛する者に対する非情な仕打ちと過剰な自信には、読者である私もぞくぞくさせられるほどです。
 これは、究極の美青年を描くために生まれた小説であり、「美」と名づけられた一幅の絵とも見てとれます。悠一は主題そのものであり、他の登場人物はそれを引き立たせるための背景。そして、自らの性癖に悩む彼に鏡を示し、ナルシストへと昇華させた老醜の作家「檜俊輔」は、それを映し出す絵筆のようなものです。
 またこれは、女性への復讐の物語でもありました。女を愛さない美青年の足下に女を屈服させることによって俊輔は復讐を遂げました。『禁色』を書いた頃の三島由紀夫は、決して俊輔のような醜い老作家ではなかったと思いますが、その復讐の心や不幸な青春へのこだわりに、作者自身の心が投影されているように感じられます。
 しかし、物語は後半になり様相を変えてきます。自らを映す鏡と、「見られること」にしか興味のなかった悠一が、自らが世のあらゆる物を「見る」ことで、現実の中で生きようとし始めるのです。俊輔から逃れ、絵から抜け出そうとします。その傾向は、妻の出産に立会い、生命の瞬間をみつめたことを最大のきっかけとしますが、もっと前の段階で、腕を組み合う男女の軽蔑に屈する感情などからも、流れてきているように思えます。妻と子のそばにいる彼は、前半よりも幸福そうに見えます。それもまた、三島自身の心の内ともとらえられます。
 悠一を愛してしまった俊輔は、悠一が変わってしまったことを知り、自ら命を絶つことで絵を完成させました。その後の悠一が、俊輔から解き放たれて、本当に自由に、幸福に生きることができたのかどうかは定かではありません。
 「解説」によると、物語の前半と後半の間には、作者の外国旅行による10ヶ月の休止期間があり、後半の連載に際しては、前半の内容も一部改定しているようです。ナルシストとしての勝利と現実の生への憧れ。10ヶ月の間に、作者が見たものは何だったのでしょうか。

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