ちせ本の記録
私の好きな本を集め感想を書いていきます。
「黒いチューリップ」 デュマ
黒いチューリップの栽培に情熱を傾ける青年コルネリウス。それ以上に読者の心に訴えかけるのは、獄吏の娘であるローザ。獄中にいるコルネリウスを救うため、奔走するその姿がかわいい。少女のための小説です。


 チューリップと美少女

 おそらくは中学生の頃、ジュニア版で読んだ作品です。
 同じくジュニア版で読んだフランス文学の中でも、スタンダールの『赤と黒』やモーパッサンの『女の一生』、『黒いチューリップ』と同じデュマの作品である『モンテ・クリスト伯』などは、大人になって読むと、当時には理解できなかった登場人物たちの心情や、複雑なストーリーがたくみに絡み合って物語が展開していくのを知り、やはりこれは大人の読む本だとより深い感動を覚えたものでした。
 しかしこの『黒いチューリップ』に関しては、市民による前宰相とその弟の惨殺という冒頭の残虐なシーンを除いては、ジュニア版でもあまり変わりがなかったかもしれない、と感じました。これは少女向けの作品です。
 まず主役が何と言っても「チューリップ」というのがかわいらしい。舞台はもちろんチューリップの王国オランダ。チューリップの栽培に情熱を傾ける美青年コルネリウスは、彼に嫉妬した隣人のたくらみで、罪もないのに投獄されることになります。物語の間中彼がほとんど獄中にいるというせいもありますが、この青年は主人公としては物足りないほど受動的です。チューリップにしか目のない学者肌なところも、彼を面白みのない青年に仕立て上げています。
 かわって強い印象を与えてくれるのが、コルネリウスの恋人であり獄吏の娘であるローザという少女です。彼女は恋人がハーグからルーヴェスタンへ移送されたことを知ると、公爵に父の転任を訴えて恋人を追いかけてきたほどの女性。それからは毎晩危険を犯して恋人の独房を訪ね、恋人のために文字を覚え、恋人にかわってその命とも言える「黒いチューリップ」を育てました。恋人が自分よりチューリップの方を大事にしているのではないかと感じると、1週間会わないという強硬な手段に出たりもします。それを嘆くのは身勝手な男のコルネリウスの方で、ローザにはその間にも黒いチューリップを守り抜くという使命があるのです。やがて黒いチューリップが盗まれたとわかると、黙って1人でその行方を追いかけて出て行きます。
 つまり主人公は、少女である読者の共感を呼ぶような、強くて美しい少女なのです。チューリップと美少女。何とも絵になる構図です。
 ストーリーも単純です。時の権力者の意向によって救われる大団円は、水戸黄門的勧善懲悪ストーリー。大人にはわかりきった結末ですが、純粋な少女であれば、はらはらしながら読めることでしょう。私も読書好きな少女だった頃の、まだかわいらしかった自分を思い出しながら読み進めました。


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テーマ:読書感想 - ジャンル:本・雑誌

「夏への扉」 ハインライン
語り手の“ぼく”と猫のピートが、「夏への扉」をさがす物語。冷凍睡眠保険によって30年後の世界で目覚めた“ぼく”。猫好きが願うのは“ぼく”以上にピートの幸せ。ハッピーエンドを願って開けた扉。さて、その先にあるものは…。


 ピートよ、君こそ幸せに。

 読み終えて、とても幸せな気持ちになりました。ハッピーエンドな本を読むと、こうも温かい気持ちになるものなのですね。
 これは語り手の“ぼく”と猫のピートが、「夏への扉」をさがす物語。ドアを開けるとそこは夏。雪の降らない暖かい夏があると信じて、人と猫は扉を開け続けるのです。
 1956年に出版された『夏への扉』で描かれる1970年(私の生まれた年だ)には、「冷凍睡眠保険(コールドスリープ)」というシステムが一般化されていました。技術者にして発明家の“ぼく”は、猫の気持ちはわかっても、人間の気持ちを理解するのがいまいち苦手なところがあるようです。そこにつけこまれた彼は、共同経営者と恋人の裏切りによってだまされ、自らが望まない冷凍睡眠に入ります。目覚めたときには30年の月日がたっていました。すなわちそこは2000年。21世紀になったばかりの世界。
 『夏への扉』で描かれる2000年は、ロボット社会でした。かの風邪という病が克服されていたりして(なんてうらやましい)、私たちが知る2000年とはかなり違います。過去に自らが発明したロボットたちが活躍する世界は、技術者の“ぼく”にとって魅力的であると共に、誰も知る人のいない孤独な世界でもありました。飼い猫のピートとも、唯一の友人であったリッキイとも会うことができません。裏切り者のマイルズとベルを見つけ出して復讐したいと思っても、彼らを探し出すための何の手がかりもないのです。
 ようやくみつけた小さな手がかりをきっかけに、“ぼく”はついに時間旅行に出かけ、過去を修正するという冒険に出ます。まだこの時代にも一般化されていなかった時間旅行。それは“ぼく”の運命を良い方に変える旅です。ひとりぼっちではない、ピートやリッキイと一緒に生きることができるもうひとつの運命、すなわち「夏への扉」を探す旅路。
 読者は基本的にハッピーエンドを願って本を読み進めるものです。この作品に関しては、必ずハッピーエンドで終わるという確信がありました。それでも最後まではらはらさせられました。だからこそ読み終えたときはとても幸せな気持ちになりました。
 そんな幸せと、ハッピーエンドが信じられる一番の原因は、何よりも猫のピートにあります。主人公がもっとも大切にしている雄の飼い猫。ジンジャーエールが好きで、けんかが強くて、「夏への扉」を探し続ける前向きな猫のピート。最高に魅力的で、愛すべき猫のピート。猫好きにとって、ピートがハッピーにならない結末はあり得ないしあってはならないのです。猫を不幸にする小説なんて許せませんから。ピートは必ずもう一度“ぼく”に会わなければなりません。
 この小説には、最後に“ぼく”が不安を感じるもうひとつの結末も予想されます。時間旅行によって修正されることのなかったもうひとつの“ぼく”の人生。どちらを選ぶかは読者しだいであるとも言えます。でもとにかく、ピートを愛する私は、とっても幸せな気持ちで読み終えたのです。

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「悲しみの歌」 遠藤周作
あの『海と毒薬』は、この作品のためにあったのでしょうか。20年の歳月を経て、その後を描いた作品。都会の片隅で悲しく生きる人々のそばには、神のごとくみじめな1人のフランス人がいました。


 無力でみじめな神様の存在

 『海と毒薬』から20.年の歳月を経て世に出された、『海と毒薬』の続編とも言えるこの作品は、これを読むためにあの『海と毒薬』があったのだと思えるほど、深い感情を私の胸に残しました。「神の不在」を考えさせられた『海と毒薬』と違い、ここでは確かに神の存在を感じることができます。ただしそれは、おかしなヒッピー風のフランス人、ガストンに象徴されるように、無力でみじめな存在として。悲しい人々と共に泣き、笑い、悲しい人々のためにいためつけられ、ただ祈ることしかできない存在として。
 戦後豊かになった日本の、都会の片隅で取り残されたように生きる人たち。人は悲しみを覚えるごとに成長し、生きる意味を見出していく存在なのかもしれません。しかしただ悲しみを重ねるだけで、生きる意味を失ったままこの世を去って行く人たちも大勢います。それらの人々の悲しみを抱えて、残された人たちは生きて行くのです。
 『海と毒薬』で米軍捕虜の生体解剖実験に関わり、戦犯として裁かれた勝呂医師は、30年後の今日、都会の片隅で医院を経営し、女たちの堕胎を手伝っています。田舎の町医者として、患者たちと共にささやかに生きることを夢見て医師になった勝呂。野心など何もなかったはずなのに、あの事件が彼の人生をすべて変えてしまいました。戦争により人生を奪われた多くの国民と同じように。世間から絶えず非難され、そこから逃れ、孤独に生きていくしかない勝呂の人生。
 戦後を生きる若者たちは、戦時中の過ちを糾弾することに夢中なあまり、当時の人々の悲しみの本質に気づいていません。勝呂を取材する新聞記者の折戸がそうで、勝呂の心の奥底に本気で近づこうとはしません。ただ批判し、それによって読者の心をつかむことで、自らの出世を夢見る男は、出世を狙ってあの事件に携わった医師たちと似ていることに、自身気づくはずもありません。
 新宿の夜に出没する、愚かな学生。若者に変装した大学教授。男にたかって生活する女。腹立たしい存在の彼らにも、どこか悲しみが漂います。
 新宿の明るい祭囃子が聞こえる病室には、癌の痛みに耐えかねて死を願う老人がいます。すでに死が目前に近づいている老人のそばで、無力な治療に携わる医師の勝呂がいます。祭りの現場には、屋台や催しの前に楽しげに集う人々に混じって、ただ病気の老人の笑顔を見たいがためだけに、無様に殴られ続けるピエロのようなガストンがいます。
 ガストンに出会い、その存在意義を知った人々は、きっと心のどこかで慰められたことでしょう。そして、ようやく悲しみを知った新聞記者の折戸も、やがてはガストンと出会い、戦犯たちの本質を本気で知ることができるようになる、そんな気がします。これほど悲しい作品なのに、どこか心が温まり、救われたような気がする小説です。


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「わたしを離さないで」 カズオ・イシグロ
「?」で始まった物語は、「?」が明らかになるにつれ切ない思いへと変わりました。未来を定められた彼らの見る夢は、なんとささやかでもろいのでしょう。その存在はなんて切ないのでしょう。作者のノーベル賞受賞を機に読んだ作品です。


 その切ない夢と存在

 「なぜ?」「どういう意味?」という「?」から始まった物語は、その「?」の実態が明かされていくにつれ、どうしようもないまでの切ない思いへと変わりました。
 「わたしの名前はキャシー・H。いま三十一歳で、介護人をもう十一年以上やっています。」と始まる私小説。「介護人」とは一体なんだろう? しかもその人が介護をしている相手は「提供者」? 出身はヘールシャム? それはいったいどこのことだろう?
 そしてキャシーは自らの子ども時代、すなわちヘールシャムでの日々を回想し始めます。ヘールシャムとは全寮制の学校のようです。先生は教師ではなく「保護官」?と呼ばれます。不思議なのは、ヘールシャムにいる彼らに帰る家はなく、どうやら親がいる気配もなさそうなこと。それどころか、彼らがヘールシャムの外に出ることはなく、外から人が出入りすることもほとんどない様子です。
 そんなヘールシャムで彼らは、それでも普通の子と変わりのない、子供らしい関係を築きながら日々を送ります。いじめや嫉妬、友情と愛情、そして嘘。単純なようでいて複雑な、成長の過程で誰もが経験する痛みを抱えて。
 キャシーはそこで、後にキャシーの提供者となるルースやトミーと共に、アンバランスながらも深い友情を育み、成長していくのです。後に「幸せだった」と回想できる日々を。
 しかしやはり彼らは普通ではありません。「一九九〇年代末、イギリス」とはいえ彼らは私たちの知らない、闇に葬られた場所で生きている人たちです。何よりも彼らに未来はありません。彼らの将来は、介護人と提供者になると決められています。彼らはそれを保護官たちから直接教えられることもないまま、成長の過程で自然と自らの運命を知っていきます。外の世界との違いを知らない彼らは、いとも簡単にそれを受け入れ、1人、また1人と消えていくのです。
 ヘールシャムの交換会や販売会で手に入れた品を集めた宝箱。失くしたものがみつかるという場所ノーフォーク。自分たちの「親」。そして、心底愛し合っていると証明できたカップルが、数年間提供者になることを猶予してもらえるという噂。
 彼らの見る夢はなんとささやかで、なんてもろいのでしょう。そして彼ら自身は、なんと切ない存在なのでしょう。彼らが闇に葬られている限り、人はその存在と罪を知ることはありません。
 「わたしを離さないで」―はキャシーが聴く音楽のタイトルで、そのカセットテープはルースとトミーとの三角関係をよりややこしくする役割を果たしました。一方でその言葉の意味は、聴く人によって解釈が異なる曲でもあります。胸に赤ちゃんを抱いているところを想像しながら、その曲を聴くキャシー。
 「わたしを離さないで」―作品を読み終えて私はふと、「提供者」と「介護人」の関係を思いました。提供者の孤独を癒すため、提供者を1人にしないためにこそ、介護人はいるのかもしれない、と。わたしを離さないで。
 ノーベル文学賞受賞をきっかけに読んだカズオ・イシグロの作品には、この作者の本をもっと読みたいと思わせる、深い味わいがありました。そしてこの『わたしを離さないで』については、「?」を明らかにしてもう一度読みたいと思いました。すべてを知っているからこそ、会話のひとつひとつの切ない響きをより感じ取れるだろうと思います。そしてまた、タイトルがもつ他の意味をも、発見できるかもしれません。

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「塩狩峠」 三浦綾子
若い頃に読めば共感できたであろう信夫の生き方。しかし今はまず、身近な人を幸せにできるかを考えます。信夫のふじ子への愛情と、キリスト教信者としての偉大な行為は、はたして両立できるでしょうか。


 一読者としての願い

 もし私がもっと若い時に、例えば大学生の頃にこの作品を読んでいたとしたら、私は主人公永野信夫の生き方に、もっと深く共感できたことでしょう。学校と家庭だけだった社会を飛び出し、広い視野で世の中を見始めたあの時。世界では天安門事件やベルリンの壁崩壊、湾岸戦争などのニュースが飛び交っていました。

   一粒の麦、
   地に落ちて死なずば、
   唯一つにて在らん、
   もし死なば、
   多くの実を結ぶべし

 ロシア文学やフランス文学を通じて、イエス・キリストの生き方に感銘を覚えたのもその頃でした。しかしまた時を重ねると、不思議と地域や家族という身近なところに思いが帰っていくものです。まずは一番身近な人に、手を差し伸べたいという思い。
 永野信夫は明治10年の生まれ。生まれてすぐに母を亡くしたと聞かされ、前時代を生きた祖母に、士族の長男として厳しく、しかし深い愛情を持って育てられます。ところが祖母の死後、父が突然キリスト教信者の母と妹を信夫のもとに連れてきます。キリスト教信者であることを理由に、祖母によって離縁させられた母は、実は生きていてひそかに父との間に妹までもうけていました。
 母が息子よりもキリスト教を選んだという事実と、祖母への思いから、信夫は母や妹を愛しつつも、彼女たちがキリスト教信者であることには反発を覚えながら育ちます。しかし、子どもの頃から思慮深く聡明だった彼には、いつかキリスト教を受け入れるに違いないと予感させられるものがありました。
 やがて成人した信夫は、幼い頃からの友人吉川と、その妹ふじ子の暮らす北海道へ渡ります。父を早く亡くしたため、大学へ行けず働きながら母と妹を支えてきた信夫。妹の待子を無事嫁に出したこの時、しばらく自由に生きてみることに反対する人は誰もいなかったでしょう。信夫にとっては自分探しの旅でした。
 信夫はここでようやく、自分自身で選んだ人生を生きることになります。自らキリスト教信者となる人生を。そして、結核と脊椎カリエスのため闘病を続けるふじ子と共に生きるという人生を。
 信夫の母も妹も、妹の夫もキリスト教信者なので、そんな信夫の生き方に反対する人はありませんでした。しかし、祖母が生きていたらどうだったでしょう。いつ治るかわからない病に苦しむ女性を待つよりも、健康な女性と結婚して跡継ぎを作ることが使命だと言われたことでしょう。
 私はそんな信夫に反感も覚えましたが、ふじ子の涙に気持ちが変わりました。生まれつき足が不自由で、それでも嫁にもらってくれるという人が現れたのに、結核で婚約を破棄せざるを得なかったふじ子。常に自分を卑下することなく、強くやさしく生きるふじ子。病を得て、キリストに帰依することで自分を強く持つふじ子。そんなふじ子と一生を共にすると信夫が言うならば、何が何でも彼女を幸せにしてほしい。彼女の涙を裏切ってはいけない。
 塩狩峠で起きた事故については、ただ私の思いだけを記しておきます。
 私が願うのは何よりも、信夫の婚約者であるふじ子の幸せです。また信夫の母である菊、友人の吉川、上司の和倉、妹夫婦らの幸せです。信夫が守るべきは誰よりも彼ら。信夫にとって最も身近に存在する人々。彼らが幸せに生きていけますように。信夫の偉大な行為が、誰よりも彼らを幸せにするものでありますように。

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